2019年8月26日月曜日

映画『聖なる泉の少女』

どう表現しても足りないような美しい世界である。深い雪の中にある器の中を泳ぐ魚、病をいやす力を持つとされる泉、絶景の湖…。泉の水による治療を代々行ってきた家で、父アリは娘ナーメを後継者にしようとしている。
とはいえ、映画の舞台も紛れもなく同時代である。泉を中心とした太古の時代からの信仰が続いている村にも近代化の影響は及んでくる。時折挟まれる水力発電所の建設工事の映像と、泉を守る家の少女の心の揺れ…

しかし、村の生活と相容れないのは近代化だけではない。少女の3人の兄はそれぞれ無神論者、イスラム教の聖職者、正教の神父になり、父親のあとを継ぐことを拒否している。ここではキリスト教やイスラム教も科学と同じ文明の側に位置づけられるようだ。
映画の中でもそうだが、彼らを非難する理由は全くない。異なる信条を持ってしまったのだから親と同じことをするよう強要することはできないし、仮にできたとして魂が抜けたものとなるしかない。とはいえ、自ら古くからの生活を捨てるという選択をした結果、別の仕方で「根を持つ」ことに苦労している様子もうかがえる。


少女も疑問を持たずに後継者となることを受け入れているわけではない。村を訪れた青年への恋心を持ち、「他の人とは違う」ことに悩み、父親と一緒でないときはスカーフを外したり、化粧に興味を持ったりもする。泉の力についても自然に治ったものを水のおかげだとしているだけではないかという疑問を払拭しているわけではない。
この映画は舞台となっているジョージア南西部のアチャラ地方に古くから伝わる民話をもとにしているらしい。泉の水で人々を癒やしていた娘が他の人と同じように暮らしたいと思い、自らの力を厭うようになり、力の源である魚を放ったという話である。


映画でも少女も最後に泉のシンボルである魚を湖に放つが、民話と、また兄たちとも異なり、主体的に(自らの考えに従って)決めたというより、水力発電所の工事の影響で泉の水が枯れてしまったことで、他に選択肢がなかった結果でもある。


これにより、魚は強制的に担わされていた役割から、また少女は古い因習にとらわれた世界から解放される。
とはいえ、ハッピーエンドには全く見えない。魚を放つ際に少女は恐れることはないと言うが、(人間の手が入っていない自然も厳しい世界ではあるのだが)少女も魚も変化の激しい世界に投げ出される。最後に再度映し出される工事の映像も示唆しているし、実際に魚が放たれる湖も以前より水量が減っているようである。映画が終わった後、美しい世界が変化していく先に不安を感じずにはいられない。


消え行く世界への郷愁は感じられるが、心性が変わってしまった後に古い世界に固執するのは無理な話であり、不可避な変化として淡々と描かれており、そのことで逆に伝わることがある。

公式サイトはこちら