2019年11月10日日曜日

Movie: The Third Wife / 映画『第三夫人と髪飾り』

It is a story of a polygamous household in a remote village in 19 century Vietnam.
The girl May comes to the village to be the third wife of wealthy landowner. The society is male-dominant. Wives can get favor by pleasing their husband and their most important role is to give birth to a boy. Thus women are treated just as means.
The wives, despite occasional rivalry, help each other to survive in this harsh environment.

There is also some kind of resistance, although subtle. May tries to have homosexual relationship with the second wife Xuan who is affectionate to her.
Xuan also have affairs with the son of the landowner and the first wife. The environment, although beautiful, is choking to (at least some) men as well. But later she refuses to have affairs. In the last scene of the movie May holds venomous grass while breast-feeding her daughter, without indicating how to use the grass.

While contemporary people, if basic human rights are guaranteed, do not have to submit their own body against their will, most of us have to present work force to live. Just like being a wife in patriarchal society, we are doing some kind of role-playing games to please boss, customer, shareholder, and so forth.
To exert agency, we have to either find positive meaning inside (or beyond) the game itself, find what we can devote outside the game, or resist against "the system".
Thus the world in the movie does not look completely alien.

19世紀ベトナムの奥地の一夫多妻の家族を舞台にした物語である。少女メイは裕福な地主の大産婦人となるために村に来る。この社会は男性優位で、妻は夫を喜ばせることで好意を得ることができ、最も重要な役割は男の子を生むことである。女性は手段として扱われている。娘は男になって何人も奥さんをもらうんだと無邪気に言ったりする。

妻たちは、時折競争することはあるものの、女性に厳しい環境下で助け合って生活している。男性の支配と慣習に縛られた生活の中で、微妙な形ではあるが抵抗もある。メイは自分をかわいがる第二夫人のスアンと性関係を持とうとする。スアンは地主と第一夫人の間に生まれた息子ソンとの間で情事がある。この世界は(少なくとも一部の)男性にとっても息苦しいものである。だがスアンはその後ソンとの関係を持たなくなる。娘を産んだメイが授乳しながら毒草を手にしている場面で終わる。

現代人は基本的人権が保証されていれば、自らの体を意思に反して差し出す必要はないが、ほとんどの人は生きるために働く必要がある。家父長制のもとでの妻のように、上司、顧客、株主…を喜ばせるためにゲームのように役割を演じている。主体性を示すためにはゲーム自体に(あるいはその先に)積極的な意味を見出すか、ゲームの外に打ち込めるものを見つけるか、あるいは「システム」に抵抗するかするしかない。その意味で、映画の世界が全くの別世界には見えない。

2019年8月26日月曜日

映画『聖なる泉の少女』

どう表現しても足りないような美しい世界である。深い雪の中にある器の中を泳ぐ魚、病をいやす力を持つとされる泉、絶景の湖…。泉の水による治療を代々行ってきた家で、父アリは娘ナーメを後継者にしようとしている。
とはいえ、映画の舞台も紛れもなく同時代である。泉を中心とした太古の時代からの信仰が続いている村にも近代化の影響は及んでくる。時折挟まれる水力発電所の建設工事の映像と、泉を守る家の少女の心の揺れ…

しかし、村の生活と相容れないのは近代化だけではない。少女の3人の兄はそれぞれ無神論者、イスラム教の聖職者、正教の神父になり、父親のあとを継ぐことを拒否している。ここではキリスト教やイスラム教も科学と同じ文明の側に位置づけられるようだ。
映画の中でもそうだが、彼らを非難する理由は全くない。異なる信条を持ってしまったのだから親と同じことをするよう強要することはできないし、仮にできたとして魂が抜けたものとなるしかない。とはいえ、自ら古くからの生活を捨てるという選択をした結果、別の仕方で「根を持つ」ことに苦労している様子もうかがえる。


少女も疑問を持たずに後継者となることを受け入れているわけではない。村を訪れた青年への恋心を持ち、「他の人とは違う」ことに悩み、父親と一緒でないときはスカーフを外したり、化粧に興味を持ったりもする。泉の力についても自然に治ったものを水のおかげだとしているだけではないかという疑問を払拭しているわけではない。
この映画は舞台となっているジョージア南西部のアチャラ地方に古くから伝わる民話をもとにしているらしい。泉の水で人々を癒やしていた娘が他の人と同じように暮らしたいと思い、自らの力を厭うようになり、力の源である魚を放ったという話である。


映画でも少女も最後に泉のシンボルである魚を湖に放つが、民話と、また兄たちとも異なり、主体的に(自らの考えに従って)決めたというより、水力発電所の工事の影響で泉の水が枯れてしまったことで、他に選択肢がなかった結果でもある。


これにより、魚は強制的に担わされていた役割から、また少女は古い因習にとらわれた世界から解放される。
とはいえ、ハッピーエンドには全く見えない。魚を放つ際に少女は恐れることはないと言うが、(人間の手が入っていない自然も厳しい世界ではあるのだが)少女も魚も変化の激しい世界に投げ出される。最後に再度映し出される工事の映像も示唆しているし、実際に魚が放たれる湖も以前より水量が減っているようである。映画が終わった後、美しい世界が変化していく先に不安を感じずにはいられない。


消え行く世界への郷愁は感じられるが、心性が変わってしまった後に古い世界に固執するのは無理な話であり、不可避な変化として淡々と描かれており、そのことで逆に伝わることがある。

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