2012年7月31日火曜日

自己啓発の論理(メモ)

先日久しぶりに書店に行った。
自己啓発本、もうすこし広くビジネス本を読むのはあまり気が進まないが手にとって見た。
以下に書く内容はいくつかの本をさらっと読んだ(見た)感想で、メモ程度のものである。
なので、出典も特に挙げない。

自己啓発を行うのは自分自身に不十分な点がある、あるいはさらに成長できる点があるからである。それを否定する人はまずいないと思うが、目的とそれを達成する手段は一つではない。

自己啓発本のスタンスとして、以下のような点で分かれるように思える。(後半に挙げるものは「各論」的な部分である。)
目的
・特定の目的(億万長者になるなど)を達成すること
・それぞれが自らの目的を達成すること

適用範囲
・一定の目的、性格などを持つ人
・すべての人(タイプ別に処方箋を示すものもある)
万人向けの書き方をしているように見えても、実際は特定の人だけを対象としていたり、わざとぼかしていたりする場合もあるのだろう。

自分への態度
・ブレない自分自身の軸を確立することを重視
・外部からの刺激を受けて自己変革していくことを重視
自己啓発本であるかぎりは後者の要素があることは当然であるが、それとある意味緊張関係にある前者の扱いが説得力を決めるのかもしれない。

自分自身の限界
・自分を追い込め。そうすればおのずとがんばる。
・無理をしろ。
・限界をわきまえろ。

社交
・「成功者」は正しい。彼(女)らに近づくためあらゆる手をつくせ。
・信用できる人か自分で見極めろ。

新技術
・役に立つかもしれないから試せ
・「デキる人」に見えるようにするためにもやってみろ
・自分に合えば続けろ

繰り返しになるが自己啓発は現在の自分自身に問題があると考えるから行う営みであり、それは情報の取得についてもしかりである。現在の限界がある地点から、有限の時間その他の資源を使って判断しなければならないから、多分に「経済的」な側面がある。そこからさまざまな方法が生まれるのだと思う。

ここではかなりパターン化した書き方をした。上に挙げたものを含めた各種の論点に対する態度の組み合わせで著者のスタンスが決まってくると思うが、いわゆるハウツー本ならそれほど期待できないかもしれないが、パターンでは表せないような深みのある本もあるかもしれない。

私としては、数時間読んだだけだが、方法論としても、価値観としてもかなり違和感を持ったものも多い。自己啓発本に書かれた内容にしたがった結果病気になったり、借金地獄に陥ったりするなど失敗したとしても、著者は責任を負ってはくれない。読者の不安をあおって儲けようと考えている悪質な著者や出版社はもとより、良心的な著者や出版社でも、個々の読者の状況に該当するかは保証できない。何に従って何を退けるかは結局自己責任で行うしかない。

少し読んだ後でも自己啓発本を読むのに気が進まないのは変わりないが、もう少し読んでみようと考えている。時代ごと、国ごとなどでの特徴もあると思う。同時に自己啓発を分析した本(例えばこれ)も読んでみたい。この種の読書のほうが個人的には好きである。好きでないことにどのように対処すべきかも本によってアドバイスがことなるが、私の場合は「分析」の観点から入るなら相対的に苦にならないかもしれない。

2012年1月22日日曜日

「原因」の語り-失敗を分析する視点

 人類学では、研究対象となる人々がある出来事の原因をどのように考え、説明しているかについて扱っているものがある。


 エヴァンズ=プリチャードによるアフリカのアザンデ族の研究はよく知られている。それによると、アザンデ族は何らかの不幸な出来事が起こった場合、原因として誰かが妖術(mangu, witchcraft)をかけたと考える。妖術は唯一の原因と考えられているわけではなく、人間と出来事を結びつけるものである。
 例えば、シロアリが穀物倉を侵食していった結果崩壊して、そこで涼んでいた人がけがをした場合に、なぜこの人がいるときに倉は崩れたのかと問う。アザンデ族の人々は、シロアリが穀物倉を侵食したために崩壊したことと、日中の熱と日射を避けるために人々が倉の陰で涼んでいたことは知っているが、この2つの偶然の一致を説明するために、妖術が持ち出されるのである。
 (なお、ここで妖術は意図的にかけられるものではない。意図的に行われるものについては別の概念があてられている。)


 また、ベイトソンはニューギニアのイアトムル族で用いら れるngglambiと呼ばれる概念について検討している。ベイトソンは「危険で伝染性のある罪(dangerous and infectious guilt)」と訳しているが、イアトムル族の観念では、ngglambiのある人(本人)やその親族に病気や死が及ぶ。ただし、病気や死の経路は様々で あり、何らかの危害を被った人が邪術を使って加害者(あるいはその親族)に復讐した場合にも、加害者はngglambiによって死んだ、あるいは病気に なったとされる。


  科学技術が発達した現代では「原因」に対する考え方はもちろん上に挙げたような例とは異なるが、何らかの出来事、特に不幸な出来事が起こったときに原因を知りたいという思いは強い。


 「原因」と一言で言っても、その意味するものは見方によって異なるものである。数値シミュレーションは原因分析の一つの方法であるが、自然法則はもとより人間 行動についても一定のパターンに従うものとして、システム全体がどのように振る舞うかを検討する。また、刑法や民法では、刑罰や損害賠償の責任の有無を決 めるために因果関係を検討する。
自分自身の勉強不足のため原因分析の体系をすべて挙げることはできないし、挙げたものについても理解が不十分なところはあると思うが、ここでは人間がかかわる現象としての失敗について、「なぜなぜ分析」と「失敗学」を例に、原因についての語り方を検討してみる。


 なぜなぜ分析については基本的に小倉仁志『なぜなぜ分析10則』および同『なぜなぜ分析実践編』によっている。失敗学については畑村洋太郎『失敗学のすすめ』を中心に、一部「失敗知識データベース」を参考にしている。(なお、畑村氏は政府の「東京電力福島原子力発電所事故における事故調査・検証委員会」の委員長となっているが、ここでは触れない。)


概要として両者の違いをまとめると、以下の表のようになる。


当事者主導のなぜなぜ分析が客観的な表現を徹底するのに対して、第三者主導の失敗学が主観的な語りも重視するのは以外な感じもするが、当事者、第三者それぞれの視点に立つ場合に抜けやすい側面であるためにあえて強調しているということだろう。
目的と対象の間に論理的な結びつきはないかもしれないが、他に波及させることを前提とせずに、専門の第三者を入れるコストをかけられるのは深刻な問題だけである、という経済的な側面はありそうである。


分析の目的と分析者の立ち位置


 なぜなぜ分析は当事者が自ら抱えている問題を解決するために使われることが想定されている。何らかのトラブルが発生した場合に、現場だけでなく管理職や経営層にも解決すべき課題があることは多いが、なぜなぜ分析では
管理監督職が、あるいはトップが、現場から上がった分析結果からマネジメント上の課題を見いだし、それぞれの役目に応じて分析し、再発防止策を打ち出すことが求められる。
と現場の従業員、管理者、経営者がそれぞれの立場で分析を行う、という形をとることが想定されている。


 なぜなぜ分析では個別具体的な現場の課題を解決することに主眼が置かれている。分析した内容を会社共通のデータベースに保存して、他の人が参照できるように することも勧められているが、これは「今後のトラブルが発生した時のチェックリスト」という位置づけで、これを社内の別の部署でトラブルを未然に防止する ために使う、といったことは強調されていない。


 基本的にだれもがなぜなぜ分析を実施することが想定されているの で、分析する人の問題を避けて通ることはできない。分析のスキルを習得することが必要とされ、そのためのプラクティス(「なぜなぜ分析10則)が紹介され る一方、(分析のスキルがあっても)トラブルの当事者であることや、知識・経験の特定分野への偏りは、個人の努力で克服すべきものというよりは避けられな いものとされ、偏りをなくすために複数人(5-6人)で、かつ「バランスのとれたメンバー編成」で臨むべきものとされる。


 一方、失敗学では第三者の視点で、会社さらには社会全体のために知識として残し、他人・他社の例を教訓としてトラブルを繰り返さないことを目的としている。


 失敗の当事者が自ら分析することも否定してはいないが、
組織として真剣に取り組む場合も、本来ならば失敗した当事者から話を聞き出す専門のスタッフを育成し、任にあたらせるぐらいのことが必要
と分析の専門家の育成を求めている。全体のトーンとしても、「当事者に聞いたあとで、聞き手自身が、第三者の立場でもう一度、失敗にいたるまでの客観的な脈絡を立ててみる」など、当事者自身よりも、第三者による分析を前提とした記述が多い。


 一部の専門家が(当事者などの協力を得て)行うもの、というスタンスのためか、分析者の偏りについての言及はあまりない。一方で、
データベース化すべき情報は、…合計三百個程度で十分です。この三百という数字は、ひとりの人間が知識として吸収できる限界でもあります。
と、分析者(人間)一般の制約が失敗情報の知識化にあたって考慮される。


 情報の数が制約されている分、引き出される教訓は一般的なものである。失敗情報を伝達するためのステップとして、「記述」、「記録」の次に「知識化」が行われるが、内容は以下のようなものである。
無理な注文をこなして取引先から評価されるには、必ず約束を守らなければならない。急なトラブルにも対応できるように、スケジュール調整には細心の注意を払うべきである。また、クレーム処理はとにかく誠実な対応が一番である。
かなり一般的な情報であり、この情報を知っていたからといって無理な注文を引き受けるという失敗がすべてなくなるとは考えられない。この情報を参照した人が生々しい現場の状況を追体験してより慎重になり、同様の失敗が減少する、というのが効果だろう。なぜなぜ分析では狭い射程に対して、より確実性の高い分析と対策が要求される。


  ニュアンスは微妙に異なるものの、どちらも原因究明を目的としていて、責任追求のために使うべきでないことが明言されていることは共通している。


分析の対象


 なぜなぜ分析の対象として取り上げられているのは、日々の業務(ルーチン)の中で発生する小さなトラブルが中心である。同じ作業が今後も繰り替えされることが想定されるような仕事が例として挙がっている。
  それに対して、失敗学で分析の対象となるのは、大事故、あるいは実際には起こらなくても大惨事になりうるような失敗である。


「原因」とされるもの


  無知や誤判断など、なぜなぜ分析と失敗学が共通して原因(の連鎖の一部)として挙げているものは多い。なぜなぜ分析の「間違いの4段階」(情報、受取、判断、行動)は失敗学での「誤判断」にほぼ対応する記述がみられる。その一方で、両者ではっきり扱いが異なるものもある。


  具体的な問題としては、多忙やそれに伴う疲労を背景とした失敗に対するアプローチに両者のスタンスの違いが表れている。なぜなぜ分析では、
作業者がどんなに焦っていたとしても、極力間違えないような仕組みに改善することが、本来の目的である。 
「誰でもはまりやすい罠に偶然にも当該者がはまってしまった」という前提で、個人的な話は避けながら、ミスの本質に迫っていかなければならない。
とされ、多忙や疲労などの「個人的な話」は、再発防止策につながらない「言い訳」として退けられる。管理職や経営者レベルの分析の例はもともと多くないので たまたま載っていないだけかもしれないが、上記の記述からすれば、(全社的な)過酷な労働環境などが挙げられることはなさそうである。


 失敗学では、失敗原因の分類の中に「不注意」の項目があり、
十分注意していれば問題がないのに、これを怠ったがために起こってしまう失敗です。体調不良や過労、あるいは多忙中や焦燥感を募らせて平常心を失っているとき、つい集中できずに起こしてしまうケースです。
 と原因のなかに含めており、またより上位のレベルの問題である「組織運営不良」の中に「構成員の疲労」が含まれている。


 失敗学では失敗にかかわる人的要素を一貫して重視しているが、なぜなぜ分析では、分析にあたるときは別として、分析対象の作業に関しては人に依存しない仕組みをつくることに重点が置かれていて、人の要素は可能な限り小さくしていく方向である。
 もっ とも、なぜなぜ分析でも再発防止策として、間違いがあっても被害が出ない(小さい)うちに気づいて、正しい処置を施せるようにするために、「当事者が気づ ける・処理できる能力を身につける」ことが挙げられている。「誰でもはまりやすい罠」自体は残っていて、担当者がはまらないようにする対策ではあるが、作業者の状況に依存せず、ほぼ確実に対応できることであれば認められているようである。


原因の語り方


なぜなぜ分析では「論理的」な分析が重視されるとともに、表現も当事者の主観や心理状態などをまじえず、客観的であることが推奨されている。(「知らなかった」とか「何も考えずに」といった知識や思考にかかわる表現は排除されていない。)
失敗学はこれとは異なり、主観的な情報を重視している。「客観的」な報告と「主観的」な報告を並べた後で、
身近な問題として実感できるのは、むしろ日記のように心理状態まで克明につづられた後者の記述の方です。人は自分の立場に置き換えてそれを実感できたときにはじめて、…他人の失敗から教訓を得ることができるからです。
と主観的な情報を高く評価している。もちろん、当事者の主張を鵜呑みにするわけではないが、「その時点で同感じたか、どう考えたかという当事者の見解」は重視され、後で「真の原因」が別のところにあることがわかってもデータベースからは消去されない。


なぜなぜ分析は前述のように当事者が自らの問題を解決することに主眼が置かれているが、当事者にとっては主観的な報告など書くまでもなく、トラブルが起こったときの心情や思考は思い出せるものである(時間がたってしまうと思い出せないものもあるかもしれないが)。しばしば当事者に欠けるのは客観的な視点であり、それを補うためになぜなぜ分析のような方法論が必要とされる。他の人が類似の状況で同じ失敗を避けるために分析結果を利用することはあまり想定されていないし、なぜなぜ分析での原因と対策は前述のように、基本的には人に依存しないものであるため、主観的な情報は必要とされない。
失敗学では他の人が教訓を得て失敗を繰り返さないようにすることが目的であるが、失敗情報を参照する人は通常失敗が起こったコンテキストについては知らない。客観的にコンテキストを記述していくことも可能かもしれないが、主観的な記述の方が実感がわくし、客観的な情報で必要なものは第三者がまとめるので、当事者が客観的に語る必要はない。情報を使う人のことを考えて主観的な情報を載せているということである。


自律と他律


 ここまでで述べたように、基本的にはなぜなぜ分析が当事者の視点に立ったものであるのに対して、失敗学は第三者の視点が強い。このことが原因を語る上での違いに表れていると考えられる。


 組織や文化の問題はなぜなぜ分析ではほとんど言及されない。「的確で漏れのない再発防止策を導き出すこと」が目的であり、「社長の首を欲しているわけではな い」ため、現場レベルの分析では現場で解決できるような原因と対策がとられ、また管理者・経営者による分析でも自らがとりうる具体的な再発防止策をとろう とする。
 一方、失敗学では失敗を活かす、また致命的な失敗をなくすための組織、制度、場、考え方が低減されるなど、しばしば言及されてい る。失敗をデータとして残すにあたっても、「技術的な原因の他に、強く影響している背景として経済的背景、心理的背景などの軸も加える」ほうがよいとされ る。


 当事者の視点で会社の組織や文化を扱うことには困難がある。仮に問題があって直されるべきだとした場合、組織内部の人が改革にあたる、ということも考えられ ないわけではないが、当事者は問題がある組織や文化にどっぷり浸かっているので、何らかの対策をとるとしても組織や文化が持つ問題を反映したものになると 考えるのが自然である。中にはそうではない人もいるかもしれないが、当事者自ら対策をとる場合、そうした人が対策チームで大きな役割を担うのはむしろ例外的なケースと考えられる。


 なぜなぜ分析で、分析を行う人の(知識や経験ではなく)心理や文化への言及は多くないが、主語を明示することとか、例えば「『何も考えずに』とか、『勝手に』といったダイレクトな表現をすることで、自ら腰ひもを締め直す」といった記述がある。
 なぜなぜ分析では仕事に必要な5つの力として、「論理力」、「観察力」、「直感力」、「改善力」、「チーム力」が挙げられており、直感力は論理力と観察力か ら生まれ、改善力は(論理力と観察力の裏付けのあるなぜなぜ分析の実践によって)「改善の基礎を学んだ上で、日頃から改善を実施していくことで培われ る」。これらができていれば組織や文化の問題も解決されているはずである。組織や文化は直接的に直す対象ではなく、なぜなぜ分析を実践する中で間接的に作 られていくもの、という位置づけのようである。当事者の視点に立つのであればこれがおそらく妥当な進め方だろう。


 一方、失敗学のように第三者が中心となって対策をとる場合、 主体と客体が重なることは本質的な(不可避な)問題ではない。第三者の力量が不足していても、それは失敗学自体の問題ではない。失敗の人間的な側面への対策は、モノに対するのと同じように、対象となる個人や組織にどのように影響を与えるのかという手段の問題として語られる。


  強力な第三者の介入を入れることによってなぜなぜ分析のような自律的なアプローチでは不可能な変化を引き起こそうとしているのであるが、これは強みである反面、外部の専門家への依存、裏を返せば自らを変化させる力が生まれない、という問題も引き起こす。(常に外部に依存するわけではないかもしれないが、少なくとも自律的な組織ができるような論理にはなっていない。)


おわりに


 以上のようになぜなぜ分析と失敗学にはいくつかの共通点と相違点が存在するが、これは方法論を提唱した人の視点であり、実際に使っている人の見方は入っていないので、それについては別に検討が必要である。また、海外のものを含め、原因分析の他の枠組みについてもさらに検討してみたい。
  自分自身の会社ではなぜなぜ分析は適用例があるが、失敗学についてはない。上に挙げた視点の違いも影響しているのかもしれないが、特に不作為に対して「なぜ」と言っても適切な答えが出てくるかわからない。失敗学は具体的な進め方についての記述がないので、使いにくいということもあるかもしれない。
  他にも気になるところはあるが、話が発散しそうなのでここではこのくらいにしておく。